古今和歌集夏、秋、冬の歌2009年2月17日今日は古今和歌集の日でした。先生のお話の初めは、先日の暑い日のこと。 永井荷風の日記を読むと、春の日にひどく夏めいた暑い日のことを「暴暖如夏」と書いてあるそうです。暴は、突然という意味。 この言葉はどの辞典にも載っていないのですが、荷風は、造語というものをあまりしなくて、時折り、江戸時代の誰かの文章や、森鴎外の造語などの変わった言葉を使っているそうです。この「暴暖、、」は誰が使っていたのか、「いつかどこかでその言葉と、他の人のところで出会いたい、、、それを思うと期待でわくわくする」 と、先生はおっしゃいました。本を読むって、生きるって、なんて素敵なことでしょうか? 今日の作品は *夏の夜はまだよひながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらん という、ふかやぶさんの続きでした。 その血を引く清少納言が「春はあけぼの~」と書き出しているのは、習いとして寄らねばならないものと、そうではないオリジナルなものがまざった、絶妙な書き出しだそうです。 「よひ」というのは、人が集まって団らんをする時間を表す言葉で、まだ団らんの時間の余韻が残っておりますものを、、、という感じになります。 新古今の歌人たちは、この歌を「余情」のお手本として、本歌取りしていくつもの歌が生まれたそうです。 「桐火桶」というテキストには (これは有名人の藤原定家の作というが、嘘らしい「擬書」) なぜこういう本の名にしたかといえば、定家の父の俊成が、桐の火桶に頭を突っ込むようにして歌作をしたという話にかけたらしいです。 この本にはいくつもの本歌取りした歌が紹介されていて、なかなか読み応えがあるようですが、、、大昔のどこの誰が書いたのでしょうか?自分の名前を出せばいいのに、、、と思いました。ブログがあったら、すごい人気でしょうね。 ここで紹介された1首 *夏の夜は雲のいづこに宿るともわが面影に月は残さむ 秋篠月清家集 この人は、太政大臣、藤原良経。秋篠に住んでいたそうです。 先生は、日本の文学の特徴は「真似」といいます。 まねぶーまなぶ その心は 我と我が身は小さなものだという価値観に基づいた上で、ささやかな自分の力をもって何かしようという考えが本歌取り。 日本の文学を支えている典型的なものがあって、その素晴らしさに少しでも近づいて、次なる自分の言葉で表現する、それが日本の文学だ!と熱く語った先生でした! 荷風が鴎外の言葉をもらって使うというのも、相通じますね。 さて、森鴎外ですが、彼は当時のマルチ人間で、軍医として、軍隊の食事は飯が良いかパンが良いか、という論文を書いた。調理の方法や栄養素などを分析して、飯が良いと結論付けてあるそうです。 また、彼は明治のフロンティアとしてのリーダーにならねばと努力をしました。そして人間を良く育てるには文学が必要、文学で近代日本が作れると、行動しました。 そして、日本の韻文はマンネリ化して次の時代に伝えられない、西洋の作品で新しい日本の「詩心」を育てようと、西洋の「詩」の翻訳を考え、翻訳詩を集めた「於母影」という詩集を出したのだそうです。 「社会学の原理に寄せて」という詩を書いた学者もいたんですって。 明治のリーダーたちは、いかにしてこの国を良くしようかに、粉骨砕身の日々だったようです。 平成のリーダーらしい人たちに聞かせてやりたいですね! 次の歌 *夏と秋と行きかふそらの通路はかたへすずしき風や吹くらん みつね 「夏と秋がゆきかふって、どういうことだろう」と言われれば、私だったら、「そんな気がしたから適当に言ってみたんじゃないの?みつねちゃんも、千年後の世で分析されるなんて思わなかったかもよ」 しかし、ここですてきな本の紹介がありました。 元名古屋大学の田中新一先生の 「平安文学に見る二元的四季観」(風間書房)というのです。 そういう目を持った人たちが平安文学を支えていた。と、平安文学を分析しているのです。 そしてもう一つ、高橋和夫さんの「日本文学と気象」。 その中の「京の四季」 メモを良く取れなかったので、だいたいこんな感じ 「古今の夏の歌と秋の歌の2つ 盛夏の高気圧が衰退して、鯨のしっぽといわれる気圧の形は、西日本に厳しい。秋は地上の人の感覚とは無関係にやってくる。 みつねが大空を見上げると秋の高い絹雲が東南の方向に向かっていく。東南の空には夏の綿雲が、風にのって北西に向かって行く。 しかしそのとき、地表では30度を超える気温の中、蒸し暑い南東の風が吹き、誰も秋を感じることはない。 みつねは、この地上ではまだ夏なのに、と空を見上げた。この雲の両面移動は、こうした天気の時にどこでもよく見られるのだが、しかし、水無月のつごもりの日に見たことで、みつねにとって、「夏と秋と行きかふそらの通ひ路」に見えたのだ。」 歌はまつりごとだった時代、しっかりと対象を見据える政治家の世界がそこにある。 「日本文学と気象」。読んでみたいです。 2009年4月21日 今日は古今和歌集の日でした。秋歌の上に、詠み人知らずとしてあるいくつかのうち *このまよりもりくる月の影見れば心づくしの秋はきにけり この歌は名歌として、これを題材にして後世、いくつもの歌が作られました。 新古今では、村上天皇の皇子、具平親王の歌 *もみぢ葉を何惜しみけん木の間よりもりくる月は今宵こそ見れ 作者の具平親王の父、村上天皇は在位が長く名天子とされ、清少納言などは枕草子に村上天皇の御代に憧れの言葉を書いているほどだそうです。 この、このまより、の歌は詠み人知らずとはいいながら、小野小町の作品を集めた「小町集」の追加部分にあり、またもうひとつ、「古今六帖」という歌集に「伊勢」の歌として載っているとのこと。一人歩きして、肌合いの違う2つの歌集に出て来て、日本では女歌とされているが、中国では紀元前の准南子の詩に 「春の女は思い 秋の男は悲しむ」とあって、秋を悲しむのは男の独占となっていた。日本では後世この歌は小町、伊勢とされているが、男の歌と読むのが正しいようです。 ついでに、万葉集の巻19の終わりにある家持の歌 *うらうらに照れる春日にひばり上がり心哀しも一人し思へば について、 中国の詩経に「武将が戦いに行く、行って期待された武勲を上げて凱旋する。雲雀が高く上がっている」という詩があり、それから連想して、大伴氏はかつて天皇の傍近く仕えていたが、今は藤原氏の時代。思うのは心の中に空洞のような黒々とした心の闇が、感じられる歌だということです。 この家持の春愁3首は、女々しい歌と読まれてきたが、君臣相和する理想的な世界に関わりたいという思いのあふれる歌、だということです。 私は、ここをもうひとつ深読みして 「武将が凱旋してくるけれど、その後に多くの戦死者がいる、それを思って一人悲しむ大伴家持くん!」というふうにしてみたいと思ったのですけど。 次に大江千里の *月みればちぢにものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里は おおえちさと、または たいこうせんり と読み 春道列樹 しゅうどうれつじゅ または はるみちのつらき という景色系の名前2人で並び称されているんだそうです。 大江千里の仕事には、宇多天皇の命により、句題和歌というものをまとめて献上。これは白楽天の漢詩の句を題にしてやまとうたを歌った和漢の橋渡しをしたものだそうです。 この歌の中の「~を見れば~」というのは、万葉集に非常に多いパターンで、4500首のうち117首もあり、そのうち47例が 「見れば+形容詞」なんだそうです。 それ以後、古今から新古今までの八大和歌集全部で14例しかないそうです。 その理由として万葉の歌 *さざなみの国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも というように、万葉では「見れば+形容詞」が多い。 古今では「見れば ちぢにものこそかなしけれ」というように、直接的でない。 そこで、文学が熟す過程で、単純直接的なものよりも、より複雑なものに変わっていったのではないか、と考えられるそうです。 ちぢにものこその「もの」とは何か。 「もの」は日本人が古くから持つ言語のひとつ。大野晋先生によれば 「もの」は時間の推移に動かない。 その事によって、一つはおそれを生み出す言葉となり、もう一つは、動かないことによって何をしてもかまわない、価値のないものとして考えられるようになった。 この 「ちぢにものこそ悲しけれ」の「もの」は、分からない、あらゆる存在を呼び寄せる存在として「もの」が登場している。 たった一つの月を見て、たった一人の私が、よろずのことを考えている、という思いの広がり。 「もの」は一級の存在になれない、荒唐無稽なものとして「物語」となった。31文字の和歌には作者名が多く書かれているのに、物語の作者は不明が多いのもそのせいである。 という、先生のお話に、大きくうなずく今日の私でありました。 2009年6月16日 205番 *ひぐらしの鳴く山ざとの夕ぐれは風よりほかにとふ人もなし この歌は詠み人知らずとされているが、なぜか小野小町の歌を集めた「小町集」に載っているそうです。 「風よりほかにとふ人もなし」は、一見淋しい歌ととれるが 「来るのは風だけで十分。訪う人がないほうが安らぎをおぼえる」という読み方もあるそうです。 風というのは「訪れ」という意味がついてくるがこれは中国の大昔「六朝時代」の詩のスタイルとして 「六朝の閨怨詩」というのがあり、 ●夫が仕事が忙しくて帰って来ない ●夫が戦争に行って帰って来ない それを「待つ女」の詩だ沢山作られ、「待つ女」のイメージが固定された。万葉時代には額田王の歌 *君待つとあが恋ひおればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く(4ー488) があるが、額田王は、この中国の六朝の詩を受けてこの歌を作ったのだ、、、そうです。すでにいろいろな知識が伝わってきていたんですね。 次に 215番 *奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき 百人一首ではこの歌は 天智天皇ー持統天皇ー人麻呂ー赤人の順番の次、5首めに置かれている、非常に古い歌だと言えるそうです。ちなみに6首めは大伴家持だそうです。 紅葉は(もみじ)は、動詞もみず(変色する)の連用形「もみち(毛美知)」が名詞になったものです。 「けむる」が「煙」になったというのも同じパターン。 万葉の時代は「黄葉」「黄変」「黄色」をもみちと読ませているが、そのうちに「紅葉」が主流になってきた。 なぜ最初は黄葉が、そののち紅葉が主流になったのか。 中国でも古くは「黄葉」が主流で、そのうちに「唐」の時代に「紅葉」というようになった。その影響らしい。 しかし、万葉の頃にも「紅」という字が好きで、使い始めたのが大伴家持。 「声きく時ぞ」 この時とは、鋭角に収れんされたある場合の「時」。この作者は 「その時」に限って「秋はかなしき」と言うことができる人であろう。 先生は、中国の詩人杜甫の詩には「時」を歌いこんだものが多い、その中に突然現れる先鋭、鋭敏な時の使い方がある、と「吉川弘次郎」先生に教わり、それ以降、「時」という言葉が出て来たときに、雑にうつつに読んでよいのか、集中して読まなければならないのか、気にするようになった、ということです。 万葉の「時」はそうでもないが、それ以降の文学に出て来る「時」は、そういうふうに気にして読んでみると、面白い発見ができるかもしれない、とのことです。 「なく鹿の」 鹿鳴の歌は万葉集には46首あります。 「詩経」は中国最古の正式な文献ですがその中に「小雅」という章があり、その中にある 「士大夫はいかに帝に仕えるか。帝はいかに士太夫と対応するか」を歌った「雅」があり、その中に「鹿鳴」がある。 万葉人たちは、「詩経」をもとに理想的な名天子の時代に習いたいと考えて歌を作った。その鹿鳴の内容は 「王は家来に向かったときその万の心を受け止め得る心の持ち主」である、というもので、万葉の王権もそういうものであるべきだ、という考えのもとに「鹿鳴春」の歌が46首も作られたのだそうです。 先生はこの日の講義のまとめとして 万葉人は、実際はそうではないのだが、理想として名天子が政をとる鹿鳴春の歌を詠んだ。それは知的な背伸びともいえる。 知的な背伸びをして生きる、それが人間らしく生きること。 この「奥山に」の歌は、想像を超えて重い意味を持っている歌である。 ということでした。 民の万のこころを受け止める、そういう為政者の出現を、ホント、期待したいものです。 2009年9月15日 今日は古今和歌集の日でした。今日の歌 巻第4 秋歌上 題知らず 僧正遍昭 *名にめでて折れるばかりぞ女郎花 我落ちにきと人にかたるな その名前に惚れ込んで折りとっただけなんだよ この私が堕落してしまったと人に言わないでほしい おみなへし、は万葉集にも15例ほどあって、当時から好まれていた花のようです。書き方は 女郎花 佳人部為 美人部為 娘子部為 姫押(おみなへし)というすごい字も。 ここでは題知らずになっていますが、始めに書かれている「仮名序」には僧正遍昭の代表作として 「嵯峨野にてむま(馬)より落ちて読める」と紹介されていて 「我落ちにきと人にかたるな」は、馬から落ちたと言わないで、、、という意味も重なっているとか。 現在言われている「話す」という言葉は割とあたらしい言葉で以前は「かたる」「言う」という言葉が使われていたそうです。 「言う」は一人でもできますが「かたる」は、確実に相手の存在が必要だそうで、人びとの関係が希薄になって「言う」が出現したような気がします。 秋歌下 これさだのみこの家の歌合のうた 文屋やすひで *吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ 吹くとすぐに秋の草木が萎れてしまうので なるほどそれで山風を嵐と言うのだろう これさだのみこは光孝天皇の次男で兄は宇多天皇、この歌合わせの歌は寛平五年、893年の秋に行われ、35首の歌が残存しているそうです。 ところで昔から多くの文学者が古典の歌の解釈をしてきました。 今日のこの歌にもいろいろな解釈を教えていただきましたが、天地人の頃のこの人の解釈 「細川幽斎」 「説のおほき歌なり。木ごとに花ぞ咲きけるを、木へんに毎の字をかく故梅の字の心といひ、山かぶりに風と書きて嵐の字の心と云ふ説あり。 当流に不用之。只あらき風なり」 細川のお殿様は、関ヶ原前後の政情不安の中で生き残りをかけて戦いつつ、古今の歌論を書きつつ、むべ山風の「あらし」の風は中国流に単なる山の風か、日本が造った漢字の嵐の風かと分析していたようです。 平安時代の人たちは菊の色が変化したのを特に愛でたそうです。これは先日行った笠間稲荷の菊です! 今日は古今和歌集の日でした。前回と同じこの一首のみ。 *心あてに折らばや折らん 初霜のおきまどはせるしらぎくの花 みつね でした。 この歌に通じるみつねさんの歌が「みつね集」にあるそうです。 *月かげに色分きがたき白菊は 折りても折らぬ心地こそすれ 「月かげ」は月の影ではなくて「月の光」のこと。 そして、菊と霜はつきもので、中国も同じだそうです。 白氏文集より 「重陽席上賦白菊」 満園花菊鬱金黄 中有孤叢色似霜(中にこそうあり色霜に似す) 菊に寄せて、なぜ皇室の紋が桜でなく菊なのか?の考察。というか、人々が菊に寄せるみやび心。 1/ 粛気凝菊畝 載白知貞節 菅家文草 (大気が冷えて来て、菊の花が畝に固まったようになっている) 菅原道真は、不運にも太宰府に流されて後、人が違ったように詩が上手になった。後の作品は「菅家後草」。 2/古今集より としゆきの朝臣 *久方の雲のうへにてみる菊は 天つほしとぞあやまたれける (天の星と間違えそうな白菊!) 源氏物語・藤裏葉より *紫の雲にまがへる菊の花濁りなき世の星かとぞ見る (六条院での宴に、人の世のトップ、太政大臣になった頭の中将が、王の王、太政天皇になった源氏にはかなわない、と認めた歌) 紫は最高に立派な高貴なものの例えであり、清少納言が「紫だちたる雲の細くたなびき」と、まず書いたのは、没落して行く中宮定子の素晴らしさ立派さを例えるために絶対必要なフレーズであった、、そうです。 また、源氏の世界は現在と過去と行き来するエネルギーがある。可逆のできる文で、特別な物語構造を持っている。とのこと。壮年になった源氏と頭中将が過去を語り合うのも見事です。 =菊の花を中国でも日本でも好きな理由= 元槙(げんじん、白楽天のともだち)「菊花」 不是花中偏愛菊 此花開後更無花 (花はいろいろあるけれど、私は菊が好き なぜならこの花が咲いた後には、来年の春までもう他の花は咲かない) =日本人は何色が一番美しいと思うのか= *白き色の異なる匂ひもなけれど もろもろの色に優れたるが如し (鴨長明/無名抄) ・和漢朗詠集の最後は「白」 恋、無情、白と続く 「白」の項の成り立ちは 漢詩が5 和歌が1 漢詩のトップは白楽天の詩で あとの4つは源順の詩が四ツの断片で書かれてある。(友たちは皆去ってしまって自分は取り残されてしまった。けれども、雪月花の時に再び出会おう) この「白」は白楽天へのオマージュに他ならない。 中国の論語に書かれた「紫」が最高なんだけど、平安時代の日本人は「白」が最高の色と思っていた。 芭蕉の句に *卯の花の絶え間叩かん闇のかど 卯の花の「白」によって、「闇」がクローズアップされる、日本人の美意識。 そして、ふと思ったのですが、「千と千尋の神隠し」に出て来た川の神さまは「白(はく)」という名前でしたね。 2009年12月15日 今日は古今和歌集の日でした。NO283 *竜田河もみぢ乱れてながるめり わたらば錦中やたえなむ (このうたはある人、ならのみかど(文武天皇)の御歌となむ申す) 万葉の頃には枕詞があり、古今の頃には枕詞が少なくなって「みたて」に変わってくる。この歌は、川を流れる紅葉を、錦と見立てている、「みたて」は、万葉の頃にはなかったのか。 ないわけではない。例として万葉の一番の「詩人」、大津皇子の漢詩。 天紙風筆(大空のキャンバスに風が筆となり) 雲鶴を画く(雲や鶴を描き) 山機霜桟(山の木々や霜が織物を織るようにして) 葉飾を織らしむ(葉っぱの錦を織る) (懐風藻七言述志) もみじについて 万葉の中で「紅葉」と描いてあるのは1例だけ。 黄変、黄葉と書いてもみじというのは沢山ある。 その1例は *妹がりと馬に鞍置きて生駒山(射駒山) うち越えくれば紅葉散りつつ(万葉集巻10-2201) なぜ他は黄色ばかりなのか?という疑問は古くより古典学者の研究対象だった。 奈良には黄色い葉しかなかったという乱暴な説もある。 仮説として、紅という字が中国から日本に入って来て使われるようになるのは、奈良の終わり、天平の時代に入って来て使われるようになった。日本の文明はそれまで「紅」という言葉を持たなかった。 万葉の中で紅葉ではないが「紅」を使った歌人は、終わりの頃に出て来る、大伴家持。 *春の苑紅匂ふ桃の花したてる道にいで立つ乙女 家持は、任地で都の雅の象徴としての「紅」を使った。 それではなぜ黄色がもみじに使われたのか? 黄泉と書いて「よみ」 黄色は中国においては、色の中でベストのものである。朱や紅もベストの色だが、それとは別の高貴な色が黄色。「ユンケル黄帝液」というものがあるが、「黄帝」とは、星座の中で一番の存在。 中国の思想の中に、孔子や孟子ではない人たちのものがある。それは老子や荘子の考え。彼らの道教、TAOイズムは、黄色を第一の色とし、(楽天的?) 日本の僧の円仁という人が中国へ仏教を学びに行った当時、道教まっただ中で、びっくりして帰ってきたという記述もあるそうです。 中国では、道教の思想が政治の表舞台に表れては消え、消えては表れしたが、道教の感覚は日本の政治原理にはついに現れることはなかった。 表に出ずに存在しているのかもしれないが。 そういえば、本日騒ぎになっている「天皇」という言葉は、道教の言葉、だそうです。 平安時代になると、枕詞が減って「みたて」が増える。 しかし、言葉は絶え間なく,もう一度命を吹き返す日を乞い願っている。 限られた能力の人間が、誰かに大切なことを伝える時に、その言葉を打ち出す為の用意された助走のようなことば、それが枕詞。 言葉の重さ,素敵さを感覚として持てる人間が、その言葉をむき出しで出すことはしない心配り、それが枕詞。 言葉とつきあうための覚悟、そういうものを受け止め得るかどうかの一人一人の心の持ちようを、大切にしようではないか! ☆という先生の力説ですが、凡人には分かったようなわからないような。 それで、次の歌は、294番 *ちはやぶる神世もきかず たつた川から紅に水くくるとは なりひらの朝臣 2010年1月19日 今日は古今和歌集の日でした。秋の歌 294番 なりひらの朝臣 *ちはやぶる神世もきかずたつた川から紅に水くくるとは この歌には「詞書」がないので、その前のそせい法師の歌 *もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん の詞書 「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる」 が、歌の背景とみてよい。 屏風を見て歌を詠み、それを色紙に書いて貼ったりした。 百人一首はもとの呼び方を「小倉山荘色紙歌」と言ったそうです。カルタではなくて色紙だったようです。 「から紅」遣唐使が廃止されて国風文化の頃ではあったが、中国や朝鮮から渡来してきたものは最高のものとされていた。くれないも、呉(朝鮮)のべに藍で、最上級の赤い色。 業平にはもっと良い歌が沢山あるのに、これを百人一首に選んだ定家の心とは? それはこの歌のオーバーなおおらかさを取ったのだと思う、と先生は言われました。 一言で言えばgalant-エレガンスな伊達者。 二条の后となった高子のもとで、高貴な人々の中で歌いおおせた、業平の背伸びして精一杯のギャラントを、定家が読み取って採ったのではないか。 どれは、例えばベートーベンの初期のピアノソナタにも通じる。初めて宮廷に招かれた頃の、ベートーベンの渾身の背伸び。 この歌は、たつた川を見ていないが、限られた屏風の中の狭い空間の中から、想像を広げた業平のイマジネーションの能力の素晴らしさが分かる。 下の句の「から紅に水くくるとは」は、業平の時代には「くくりぞめ」と理解していたようである。そののち中世になって 「顕註密勘」承久3年1221年発行には 「くくるとは 紅の木の葉の下を 水のくぐりて 流るるを言ふか。潜字をくぐるとよむ」 この本は、定家の父の時代の顕昭という人の古今の注釈書だそうです。 それが契沖の頃まで続き、そののち、本居宣長が初期の頃と同じ「くくり染め」説を提唱し、それが現代まで続いている。のだそうです。 「水潜る」説にも根拠がないわけではない。 大自然、神の力でコントロールされているたつた川という風の神にちなむ場所で、もみじが美しく散っている。 あ~そうか、川の水は造物主のその力に敬意を表して、いつもと違い、もみじの下を流れて行くではないか。 別の話 万葉にはもみじは約100例あるが、その中で川のもみじという視点で歌ったのは2例しかない。 他のは、山や岡を詠うのが一般的。 川のもみじというのは、絵に描いたものから始まって、漢詩の作品となり、やがて和歌になった。この歌は伊勢物語にも出てくる。 106段 むかし、男、皇子たちの逍遥したまふところにまうでて、、、この歌を詠みました。 逍遥とはぶらぶら歩きのこと。日本人がぶらぶら歩きを、罪悪感を持たずにできるのは、ごく最近のこと。中国では荘子が、その本の中に「逍遥編」を書き、人間はこだわって生きずに無為自然に生きる事を提唱したそうです。 303番 はるみちのつらき 志賀の山ごえにてよめる *山がはに風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり 志賀寺は崇福寺といい、志賀に都を作ろうとした天智天皇が建立した、近江京の代表的なお寺だそうです。平安時代の人にとってはずいぶん古い時代であり、回帰ブームでたくさんの人がお参りに出かけたそうです。 志賀の山越えという言葉の履歴は 905年平安京に都が出来て、最初のデータとして古今和歌集に出る 最初は和歌の詞書として出て来た 1086年の後拾遺集に歌詞として歌の中に入ってくる 歌詞として出てくる頃、崇福寺が消失、現実に存在しなくなる。 この頃より、崇福寺は花,特に春の桜の花を見に行く場所として定着。やがて志賀の山越えは歌の題となり、季節は春。 ひとつの場所が何でもない説明の言葉だったのに、やがて歌の中にうたわれて、歌言葉としての情緒,エレガンスとなり、対象の崇福寺がなくなった時、抽象的な言葉として歌語として使われるようになった。 115番の歌 つらゆき 志賀の山越えに女のおほくあへりけるによみてつかはしける *梓弓春の山辺をこえくれば道もさりあへず花ぞちりける ☆あてもなき逍遥はぜいたくとして、罪悪感を捨て切れなかった勤勉な過去の日本人。彷徨は許されるのかな 2010年2月16日 今日は古今和歌集の日でした。 第303番 はるみちのつらき *山がはに風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり 「しがらみ」って自分がFreeになりたいことを邪魔する存在、というようなイメージです。この言葉は、古く万葉の昔からあり、今も使われています。 万葉集の早い頃、197番 柿本人麻呂の歌 *明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし (流れの速い明日香川も「しがらみ」(柵)を渡せばゆるやかに流れるだろう) 時代が過ぎて万葉集2721番 *玉藻刈る井出の柵(しがらみ)薄みかも恋の淀めるわが心かも (しがらみは、より強く引きとどめるもの、後ろ髪をひかれるようなものの例えに変化してきている。) 近代では、森鴎外の文学評論「しがらみ草紙」(M22年10月~27年8月)がある。 文芸の流れの中での関所として「しがらみ」草紙を作った。新人を発掘し、人々に紹介することで育てようとした。 ここで絶賛されたのが「樋口一葉』。 古今集のこの、「風のかけたるしがらみ」というのは、しがらみは人がかけるものだが「風の」となっているところに、技巧が見え見えで、正岡子規くんに指摘されても仕方ないかも。 しがらみって川などにかける「柵」とは知らなかったです。 2010年3月16日 今日は古今和歌集の日でした。 巻の6 冬の歌 315番 みなもとのむねゆき朝臣 *山ざとは冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば この人は、歴史上名前がある上に文学上にもデータが残っています。歌は勅撰和歌集にもあって、ちんまりとシックな歌ですが、大和物語に描かれた彼は、恋愛にうつつを抜かし、自分には能力があるのに官位が上がらないという悩みを抱えた男として登場します。 立場は、皇族の孫、というものであって、在原業平に似ていますが、業平くんは歌を手段として帝王の世界に近いものを求めたのに対して、むねゆきくんはそういうものに打ち込むことはしませんでした。 山ざとは冬ぞさびしさまさりける この「まさりける」によって、山里は春も秋も寂しいのだ、という「山ざと」の本意(ほい)がわかります。 古今和歌集には、こんな山ざとが出てきます。 282番 詞書に山ざとが出てくる一つだけの例 宮づかへ久しうつかうまつらで山里にこもり侍りけるによめる *奥山のいはかきもみぢちりぬべし てる日の光みる時なくて 藤原関雄 歌に山ざとの出て来るもの 205番 *ひぐらしの鳴く山ざとの夕ぐれは 風よりほかにとふ人もなし 小町かも? 68番 *見る人もなき山ざとのさくら花 外のちりなん後ぞさかまし 伊勢 誰も見てくれないけど、他の花が散ったら私の方に目を向けてくれるかも? 15番 *春たてど花もにほはぬ山ざとは ものうかるねに鶯ぞなく 在原棟梁 (業平くんの長男) 214番 *山里は秋こそことにわびしけれ 鹿の鳴くねに目をさましつつ ただみねくん 328番 *白雪のふりてつもれる山ざとは すむ人さへや思ひきゆらん ただみねくん 944番 *山里は物のわびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり よみ人知らず 以上8例が、古今和歌集の中の山里です。春、秋、冬の寂しい山ざとが歌われていますが、夏の歌はありません。 その夏の山里を、いきいきと描いたのが清少納言です!先生は、枕草子の5月の山里をゆくシーンを朗読して下さいました! 5月が好きなのは都会人の感覚なんですって! さて、山ざとという言葉は、いつ頃から出現したのでしょうか? 奈良時代には一例もありません。 山ざとは、都市の成立が基本となっており、平安時代になると都市が大きくなって山に近くなり、山里が生まれたのです。 清少納言が散策した山ざとの草草は、そののち、命がない絵に描かれたものとして歌われ、そののち、私たちの目に触れる山里は、徒然草で 「神無月の頃とある山里に分け入りはべりしに、、」となる。 私たちはそこで驚きます。 山里は冬ぞさびしさまさりけり、、という山里の美学が、ここに踏襲されるからです。山里を歩く月は、神無月、冬の月、これに極まれるからです! 芭蕉の句に *山里は万歳遅し梅の花 というのがあります。 「連句とは何か?」と聞かれた芭蕉は「36歩先へ進む心だ。留まらない」と答え、「では俳句とは何か」と聞かれ、「行きて帰る心の味わい」だと、この句を提示したそうです。 さて、萩原朔太郎の「夜汽車」という詩にも「山里」が出て来るそうです。 このように、一つの物事をずっと追い続ける考え,研究の仕方を「通時的考察」というそうです。 夜汽車は、あとにつけておきますが、今回の歌は 「山里は、冬は特に寂しいものだ。人も離れて来なくなるし、草さえも枯れてしまうのだ」 と読む以外に、 むねゆき君は寂しいのか?案外さわやかに山里の冬をエンジョイしているのかも。都の面倒な暮らしから離れて良かった!それは、人は来なくなったけどね。ああいう人の世界から離れて伸びやかに過ごせる山里! という、プラス思考的山里、が最近の解釈にあるとのことです。 では、山里つながりで 萩原朔太郎『純情小曲集』より愛憐詩篇 「夜汽車」 有明のうすらあかりは 硝子戸に指のあとつめたく ほの白みゆく山の端は みづがねのごとくにしめやかなれども まだ旅びとのねむりさめやらねば つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。 あまたるき"にす"のにほひも そこはかとなきはまきたばこの煙さへ 夜汽車にてあれたる舌には佗しきを いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。 まだ山科(やましな)は過ぎずや 空気まくらの口金をゆるめて そつと息をぬいてみる女ごころ ふと二人かなしさに身をすりよせ しののめちかき汽車の窓より外をながむれば ところもしらぬ山里に さも白く咲きてゐたるをだまきの花。 2010年4月20日 今日は古今和歌集の日でした。 坂上のこれのりくんの歌 NO,325 *み吉野の山の白雪つもるらし ふるさとさむくなりまさるなり NO,332 *あさぼらけありあけの月と見るまでに 吉野のさとにふれる白雪 これのりくんは、坂上田村麻呂の数代時代が下がった頃の一族の人だそうです。 彼は、次官級の役人で、出世は遅いが、36歌仙の一人であり、時々屏風に歌を書いたりするのを所望されたようなので、歌人としては有名だったようです。 延喜8年に、大和権少掾となり、そののち、加賀国介となりました。50首の歌を集めたこれのり集という私家集を残しています。 蹴鞠の上手な人でした。そのくらいしか資料が残っていないそうです。 古今和歌集には、8首が納められており、いわばマイナーポエットという立場のようです。 8首の歌のうち、267番はたつた川、267は奈良、302番もたつた川、325、332番は吉野、と、歌の半分が大和地方で直接取材したような歌。 古今集の成立は、延喜5年で、彼が大和国の地方官として赴任したのは延喜8年なので、古今集の成立時にはこの歌は入っていなくて、後で書き加えられたと推察できる。 325番の歌の「ふるさとさむく」の「ふるさと」は、昔、都だった奈良に、京の都から下ったということ。平安京の文学での「ふるさと」は、奈良。 み吉野の山の白雪つもるらし 古今集の中で、吉野は「雪」という歌が多い。今のように吉野=さくら、というのは 60番 紀とものり *み吉野の山べにさけるさくら花 雪かとのみぞあやまたれける これは、吉野の雪の残映+さくらが歌われており、成立は宇多天皇の頃、893年以前であり、905年に古今集が成立したので、古今集成立前後に雪の吉野とさくらが出会った記念碑的作品となる。 吉野=さくらという観念の確定には、西行まで待たねばならない。 吉野と雪のイメージの定着には、万葉集の中の天武天皇の歌。 兄の天智天皇との確執により、吉野に逃れた大海人が、のちに天武天皇となって吉野を歌った。 *み吉野の耳我の嶺に時なくぞ雪は降りける 間なくぞ雨は降りける その雪の時なきが如 その雨の間なきが如 隈もおちず 念ひつつぞ来る その山道を 大海人の歌の陰鬱さから生まれた吉野の雪のイメージが長く続いた。 天武の死後、天皇となった妻の持統天皇は、足しげく吉野に通いました。夫との逃避行の思い出の場所だったからか? 実は、その訳は、延喜式(法律)の中の祝詞からうかがえるそうです。 祝詞の中の祈年祭(きねんさい)(としごいのまつり) 「水分(みくまり)に坐す 皇神(すめがみ)たち 吉野、宇陀、都祁、葛本 と、御名は、、」 吉野は大和の水源地であり、持統女帝は観光ではなく、水の管理,水を司ること、すなわち国を治めるという位置づけで、吉野詣でをしたと考えられるそうです。 昔も今も水源地は大事なんですね。 先生が』大好きだという西行の歌を教えてくださいました。 *吉野山こずえの花を見し日より 心は身にも添わずなりにき これは、言葉だけではなく、遊離魂に基づく花恋いの歌で、すごく素敵なんだそうです。こんなに浮かれられるなんて、西行さんがうらやましい、現代人の私めでございます。 2010年5月18日 昨日で,古今和歌集の講義が30回でした。冬の歌を2首、これで春から冬へ1年が終わりです。 337番 紀のとものり *雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし 336番にきのつらゆきくんの歌 *梅の香のふりおける雪にまがひせばたれかことごとわきて折らまし これは,多分どこかで「わきて折らまし」を題にして雪と梅の歌を詠み合わせた時の作品ではないか、とものりくんとつらゆきくんは、同じ紀氏の仲の良い親戚同士だったそうです。それでも、自分の歌を先にしたというのは、つらゆき君の性格らしいです。 この頃の梅は、白梅。 源氏には、紅梅の巻があり、 枕草子には「木の花は、濃きも薄きも紅梅」となる。 さて、この歌の、木ごと(毎)にを足して梅を引き出す用法は、 むべ山風を、、嵐とする用法と同じで 2つの要素があって、それがまとまるとある言葉を生み出すことが行われた。そのお手本には、中国の漢詩の中に,字を組み合わせてある一つの概念を作るという「離合詩」がある。 離合詩の例 邊に在りて友に贈る 1首離合(これは離合詩である) 小野岑守 班秩邊城久しく (遠い国に長い赴任しているぼく) 夕来帝城を夢みる(夕方になると都のことを思う) 衿は霑る異郷の涙(異郷での衿は涙にぬれ) 衣は緩ぶ故郷の閨(都の君は心配してやせて着物はゆるゆる) 弦望年頻りに改まれど(月は満ち欠け何年もたったけど) 弓鞍の力漸くに非なり(弓を引いたり鞍に乗る元気はもうないよ) 綿々なり千景の路(長々と都とみちのくをつなぐ路は遠く) 帛素双飛に寄せむ(白い布に手紙を書いて雁に託して送るね) これが離合詩というのは 班から「リ」を取り 衿から衣を取り 弦から弓を取り 綿っから帛を取る 残った四つで熟語を作ると「琴弦」という字になるとのこと。 =ネットからいただきます= もっと込み入った離合詩というものもあります。短くて離合詩を説明しやすい菅原道真の「秋夜」を引きます。 班来年事晩(班(あ)かち来たりて年事晩(おそ)し) 刀気夜風威(刀気夜風威(はげ)し) 念得秋多怨(念ずること得たり秋の怨(おも)ひ多きことを) 心王為我非(心王我が為に非なり)(菅家文草・一・二一) 老人たちをあちこちに分けて行く。刀の殺気のように夜の風ははげしい。秋は怨みが多いことを悟った。心という王よ、時勢は私にとって良くない 第一句の班から第二句の刀を除き、第三句の念から第四句の心を除いて、それを合わせると琴となります。詩の裏には、だから琴でも弾いていよう、という気持ちがあるのでしょう。= 昔昔の言葉遊びって手がこんでいますね。 341番 はるみちのつらき 年のはてによめる *昨日といひけふとくらして あすか川流れて速き月日なりけり 月日を川の流れにたとえた、洋の東西を問わず、人類の知恵というか、気づき。 「ゆく者はかくの如きか 昼夜を舎(お)かず」 論語 万物は流れる pantarei ヘラクレイトス ミラボー橋 アポリネール (恋人のマリーローランサンに会う為に通った) ミラボー橋の下をセーヌは流れる 日や月も流れる そして 我らの恋も流れる 年のはてによめる これで古今集の春夏秋冬を終えてみて、日本人の感覚としてもう一度、春夏秋冬を繰り返すのか?または、過ぎ去った日はもう戻らないとするのか、古今和歌集の哲学的問題、、、なんだそうです。 ジャンル別一覧
人気のクチコミテーマ
|